こんばんは。ソムリエのらきてぃっちです。今回は、
クロアチアの隣ボスニアリーグと元日本代表主将が創設した組織について
この地は内戦の時は、セルビア系、クロアチア系、ムスリム系で3つどもえの争いになったため、基本的にはそれぞれが共存というよりは分存している状態が続いています。よくいえば、旧ユーゴの醍醐味が詰まっているんじゃないかとも思いますが、あれだけの戦争がありましたから、20年の到着点が今どこなのか。
1992~1995年のボスニア紛争が終結して20年以上経った現在も、同国ではボスニア人(ムスリム)、クロアチア人、セルビア人などの民族間に対立感情が残っています。
日本のレストランにも2008年くらいかな?アメリカ人と結婚したボスニアの方が来た時がありましたが、クロアチアの曲が流れる店内ですすり泣きをずっとしてしまって、食事どころではなくなってしまって、クロアチア人のシェフがでてきてなぐさめていたのを覚えています。
モドリッチも認める?ボスニアリーグ
ボスニアでサッカーリーグをしていたら、クロアチアのディナモ・ザグレブとハイドュク・スプリットの抗争どころではなくなってしまうのではないかとも思いますが、ズリニスキ・モスタルでプレーしていたモドリッチは
「ボスニアリーグでプレーできれば、どこでもプレーできると言っていたことから、プレーの激しさを象徴しています。」
ラフプレーも結構多かったみたいです..ピッチも。モドリッチがプレーしたのが、確か、2003‐2004でした。
モスタルでも人気者だったモドリッチ
”ズリニスキでも、常にセントラル・ミッドフィルダーだった。クリエイティブで、人並み以上の才能があったし、いつでも自分を魅せる方法が分かっていた。それに完璧な技術も備わっていたから、ボスニアリーグのような難しいピッチコンディションをもろともしなかった。彼はキャプテンとなったけど、18歳でチームを率いるのは珍しいことだ。
”ボスニアリーグを経験したことで、さらにタフになったんじゃないかなと当時の指揮官は語っています。難民だった彼はとても人気がありました。皆、彼に夢を投影したんじゃないかと思います。
しかし、この頃は、リーグが統一されて、いいような、悪いような?時期だったのではないでしょうか?そもそもリーグ統一ってどーゆーこと?と申しますと
戦後のボスニアサッカーリーグの変遷
ボスニア・ヘルツェゴビナは1995年秋のデイトン合意で和平協定が結ばれ、停戦したが、国土は3つの民族勢力によって分割されました。
国家制度としては、ムスリム人とクロアチア人の「ボスニア連邦」 (領土の51%)と、セルビア人の「セルビア人 (スルプスカ)共和国」 (49%)の2つの構成単位に分かれ、双方の代表が統一国家「ボスニア・ヘルツェゴビナ」の政府や議会を形成することになっているが、実際上は、ムスリム人とクロアチア人の対立も続いていたので、学校制度や通貨も3つありました。サッカー連盟も3つ、したがってリーグ戦も3つに分かれていました。
一つはムスリム人 (イスラム教徒)主導だが多民族の「ボスニア・ヘルツェゴビナ・サッカー連盟」 (FSBiH=本部サラエボ)
ファースト・リーグ・オブ・フットボール・アソシエーション・オブ・ボスニア・ヘルツェゴビナ
チェリクやFKサラエヴォらが参加した。1994年から2000年まで行われた。
もう一つはクロアチア系の「ヘルツェグ・ボスナ・サッカー連盟」 (NSHB=モスタル)
ファースト・リーグ・オブ・ヘルツェグ=ボスニア
NKシロキ・ブリイェグらが参加した。並行してヘルツェグ=ボスニア・カップも開催されていた。1993年から2000年まで行われた。
さらに「セルビア人共和国サッカー連盟」 (FSRS=本部所在地不明。おそらくバニャルーカ市)がありました。
ファースト・リーグ・オブ・ザ・リパブリカ・スルプスカボラツ・バニャ・ルカらが参加した。1995-2002年まで行われた。
合計3つの国内リーグが生まれ、それぞれがチャンピオンを決めるという異様な形ができあがっていました。
FIFAは「ボスニア・ヘルツェゴビナ・サッカー連盟」を公認し、このFSBiHが選出した代表がユーロ2000予選に出場させたりしていました。
この頃、ボスニア代表は単一の民族で構成されていましたが、セルビア、クロアチア側の選手はほとんどがそれぞれの国のリーグ、代表を求めました。
UEFAなどにより和平の道は模索されました。1997-98シーズンより、ファースト・リーグ・オブ・ヘルツェグ=ボスニアとファースト・リーグ・オブ・フットボール・アソシエーション・オブ・ボスニア・ヘルツェゴビナのチャンピオン同士がプレーオフを戦うという体制が誕生した。しかし、それでもまだスルプスカのリーグは省かれていた。
2000-01シーズンに2つのリーグが統合してプレミアリーグが誕生してからもスルプスカのリーグは除外されたままでした。2002-03シーズンにようやく3つ目のリーグが統合し、今のリーグ体制ができあがりました・
モドリッチがプレーしていた時期はこのできあがりたてホヤホヤの頃なので、結構、異様な雰囲気だったんじゃないかな~。
ちなみに、サッカー協会はその後もごたごたを続け2011年に資格停止処分となりましたね。セルビア、クロアチア、ボスニア人が協会会長を務める状態だったからです。それをおさめたのは正常化委員会座長を務めたイヴィチャ・オシムでした。
イヴィチャ・オシムさんは、2009年だか、脳梗塞で日本代表監督解任になりましたが、ボスニアに戻って、そんな難しい仕事をされていたんですね。いや、知らなかったですね。クロアチアばかりみていて、ボスニアサッカーの情勢はあまり、分からなかったですね。
こうした名残は今も下部リーグには残っているそうです。2部リーグは、ファースト・リーグ・オブ・ザ・フェデレーション・オブ・ボスニア・ヘルツェゴビナとファースト・リーグ・オブ・ザ・リパブリカ・スルプスカに分かれています。つまり、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦側とスルプスカ共和国側のリーグにそれぞれ分かれており、3部以下も同様に区分分けされているそうです。
ボスニアサッカーリーグチーム(一部)
ボスニアサッカーリーグは1部はプレミイェル・リーガ・ボスネ・イ・ヘルツェゴヴィネ、イングランドのプレミアリーグみたいな名前がついているみたいですね。国土も結構、山の方まで深いですから、サラエボとモスタルだけの国ではないことは容易に知れます。
ざっと、現在の一部チームはこれだけあるみたいです。
FK サラエヴォ |
GOSK ガベラ |
クルーパ |
シロキ・ブリイェグ |
ジェリェズニチャル |
スロボダ |
ズリニスキ |
ズヴィジェズダ 09 |
チェリク・ゼニツァ |
トゥズラシティ |
ムラドストDK |
ラドニク・ビイェリナ |
2014年にはジェリェズニチャルとFKサラエヴォのサポーターが衝突し試合が中断、20分以上のロスタイムが生まれるという事態になっている。彼らは同じファースト・リーグ・オブ・フットボール・アソシエーション・オブ・ボスニア・ヘルツェゴビナに在籍していたチーム同士だが、それでもこの熱狂ぶり。
元々、違うリーグ同士のところなんかどうなのか、個人的にはそこからボスニア、ボスニアサッカーの今がわかるような気がしますよね。モドリッチにインタビューできたら、当時のことを聞いてみたいですね。国ぜんたいでチームの数も結構多いなと思います。もりあがっている。
よく考えると首都のサラエボは冬期オリンピックを開催していますかね。結構な国であってもおかしくないはず。
ボスニアのチームは本当に”ズリニスキ・モスタル”しか知らなかったのですが、”ヴェレジュ・モスタル”というチームもあって、近くの山の名前に因む。現在はボシュニャク人のサポーターが多い。クロアチア人を支持基盤に持つダービーマッチは、ひときわ熱気を帯びるようですね。いや、見てみたいですね。
下記が、ズリニスキ・モスタルのサッカーロゴ
なのですが、かっこいいですね。おもいっきりクロアチアじゃん!と思ってしまいますよね。”HRVATSKI”ってこんな露骨でいいのかなと思いますが、ボスニアの奥深さを会間見ることができます。このユニフォームほしいなあ。1905年って結構な歴史ですね。
ヴェレ-ジュ・モスタルのサッカーロゴ
サッカーボスニア代表の戦力値は下記、所属クラブでみるとクロアチア、セルビアより劣るような気もしますが、昨年のUEFA ネーションズリーグでは、TOPのグループAに見事昇格していますから、基本的には地力はかなりあるとみていいと思います。何より、クロアチア系、ムスリム系、セルビア系も一緒の代表となって、サポーターも一緒に応援できるといいですね。
ボスニアの終着点にしたいモスタルの”マリモスト””
民族のわだかまりがあるボスニア・ヘルツェゴビナですが、ある日本人が発起人となってできたサッカー(スポーツアカデミー)があります。
”マリモスト”(小さな橋)という組織です。。
クイズ:その発起人の日本人とはだれでしょう?
①安倍元総理 ②宮本恒靖さん ③らきてぃっち
正解は③と思いますが(苦笑)②の宮本恒靖元日本代表キャプテンです。
実績としては間違い人物が間違いない行動で創設された組織です。
「マリモスト」は現地語で“小さな橋”の意味。モスタル市のネレトバ川に架かる、民族間をつなぐ「スタリモスト」という名の象徴的な橋がその名称の由来。
3民族で分断されたモスタルをスポーツで組織融和を図る
元サッカー日本代表主将の宮本恒靖さんが、引退後そんな組織を作っていたなんて、あんまり話題になっていた記憶がありませんが、いや、さすがにキャプテンやることと実行力がらきてぃっちとは違いますね。
引退後FIFA大学に通っていらして、卒論のテーマが旧ユーゴ圏の方と一緒だったそうです。そこで、グループで作成した修士論文で、民族融和を図るスポーツアカデミーについて研究したのがマリモスト設立のきっかけだったとのこと。設立式にはオシム監督もいらっしゃったそうです。
激戦地だったモスタルでも、街の中央を流れるネレトバ川の西側にクロアチア人、東側にボスニア人、郊外にセルビア人とそれぞれに居住区が分かれ、学校のカリキュラムも異なり、子どもたちが他の居住区と行き来することはあまりなく、街のスポーツクラブも民族によって分かれているため、他民族の子どもたちが仲良くなることはほとんどないそうです。
マリモストは、子どもたちだけでなく紛争を経験した親世代の融和にも取り組んでいるとのこです。
日本の支援により建てられたクラブハウスでは、子どもの送迎に来た親同士がお茶を飲みながら会話する機会も増え、保護者同士でフットサルも楽しむようになったそうです。
2018年に日本の子どもたちがスタディツアーで現地を訪問したときは、親同士が「お世話になった日本に恩返しを」と、民族を超えて協力し、バーベキューパーティを開いて歓迎した。2018年からは、モスタル周辺地域のサッカーチームが民族に関係なく集まって対戦する「マリモストカップ」を開催するなど、市民にもその活動は認知されつつある。
2019年だか、初めて、3民族合同のチームが優勝したそうですよ。
コロナウイルスや、ナゴルノ・カラバフ問題などいろいろありますが、コロナウイルスが終息するまではいろいろ活動も難しいところもあるかもしれませんが、ボスニアの終着点にしたい組織ですよね。
歌詞がないボスニア国歌
余談ですが、現在のボスニア・ヘルツェゴビナ国歌「Državna himna Bosne i Hercegovine」は、内戦後の1999年6月25日に正式に国歌として採用されてました。
それ以前の国歌だった「Jedna si jedina」が、セルビアおよびクロアティア人コミュニティを除外していたものだったため、改正された経緯があります。
歌詞を付けようと何度も試みられたが、その度内容に対し反対の声が出て断念されてきた。
2009年、サッカーワールドカップにおいて、プレーオフで確かロナウドのポルトガルと対戦で惜しくも敗退。
その際に国内で歌詞をつけようという動きが強まる。
歌詞をつけようと動いた著名人も多く、その中には日本代表の監督を務めたイビチャ・オシムもいた。
作曲を行ったシェステイッチに加えベニャミン・イソヴィチによって歌詞が作られ今回こそと思われたが、一部の政党が承認を拒否。議会で制定案が否決されてしまう。
そのため現在も国歌斉唱時は鼻歌で行われる。オペラみたいな綺麗な曲ですね。これは、その歌詞をつけたものらしいですが、国では歌われていないみたいですね。最後に聴いて、ボスニアリーグの振興を願いましょう。